Uncertainty

わかったようでわからないことを書いています。

『mid90s』-大人と子どもの境目と成熟

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この作品をずっと観たくて待っていた。

当時のストリートで聴かれていた音楽がたくさん盛り込まれているということで、公開前から話題になっていたし、それで興味を持った。

 

私はパンクやハードコアが好きなので、そこに当事者として身を置きたいと思ったことはないが、ストリートにおける生活や文化がどういったものなのか、覗いてみたい気持ちがあった。

 

涙を流すことはなかったのだが、見終わったあとは心が涙で溢れていて、泣いているような感覚になった。

 

13歳の少年スティーヴィーの目線で物語は進んでいくが、登場人物全員に共通していたのは、家庭環境に何かしらの問題を抱えているということ。そして、そこから逃げ出したいという気持ちから、決して他人から褒められることはないようなことを日常的に繰り返しているということだ。

 

特に注目すべきは、ここには大人も子どもも、どちらも含まれているという点である。

 

ティーヴィーが憧れたレイやFUCKSHITたちがやっていた非行は、彼らにとっては「大人」であることを自他共に誇示するための行為であったように感じられた。

だが、同時にそれはそういった手段を使わなければ「大人」であることを示すことができないという点で、自分はまだ「子ども」であるということを逆説的に表していると言える。

ところが、一部の登場人物に関してはその手段を使っても「大人」にはなれないことを理解している(し始めている)ことが示唆されていた。

例えば、一通り経験したスティーヴィーが、殴りかかろうとする兄イアンに「友達も女もいないくせに偉そうにするな!」と抵抗したあと、ファミコンのコントローラーのコードで自分の首を絞めるシーンがあった。ここには、イアンを傷つけたことに対する自己嫌悪はもちろんそうだが、自分が経験してきた非行に心のどこかでは後ろめたさを感じながらも、それでしかイアンに対抗することができないという、自分の弱さに対する自己嫌悪も含まれていたのではないかと思う。

また、レイの内面的な部分がスティーヴィーとの関係を通じて変化していく様子は非常に印象的であった。スティーヴィーの純粋さと、そして2度の大事故を目の当たりにして、自分たちがしていることがスティーヴィーにとって本当は良くないことなのだということを悟っていたのだと思う。それゆえに出たのが、最後のシーンのセリフだった。お前のためにならない、なんてことは「大人」でなければ言えないことだなと思う。まさにこれはレイ自身の成長を最後に示したシーンだった。あの後、レイのあの言葉を受けて、スティーヴィーはどうしたのだろう。

 

 一方で、スティーヴィーの母親は、2人の息子の親であるというまさに「大人」のステータスを持っているわけだが、代わる代わる息子たちが知らぬ男を連れ込んでは、上手くいかずに口論となり、また新しい男を連れ込む...ということを繰り返している。

しかし、夜な夜な遊び歩くスティーヴィーの身を案じたり、レイたちをギャング呼ばわりしてスティーヴィーから引き離そうとしたりしたことから、少し過保護にも見えるが、母親の性格は真面目で「大人」としての振る舞いをしていたと言える。

とは言え、イアンの言うように、以前の母親はもっと遊び人であったということを考えると、母親はあくまで「大人」のステータスを形式的に保持しているというだけで、実際のところ、本人自身は「大人」になりきれていなかったのではないかと考えられる。

 

このように、「子ども」でありながら、自分のしていることを「子ども」だと理解している人もいれば、「大人」として振る舞いながらも、「子ども」のような行為から抜け出せない人もいる。こうして考えると、「大人」「子ども」という概念はその人のヒューマンスキルのレベルを表すものであり、社会的なステータスのように一元的に当てはめられるものではないということがわかる。ヒューマンスキルには、自分の感情や考えを伝える力や、相手の立場に立って話を聞く力など、対人関係に関する様々な能力が含まれる。それぞれ人によって得意不得意があるため、「大人」と「子ども」両方のレベルを持ち合わせる、というケースが発生するのである。

 

本作のレビューをいくつか拝見した中で、一つ気になったことがある。

それは、イアンが暴力を振るうことについて、「意味もなく」「衝動的に」暴力を振るうと表現しているレビューが複数あったことである。

なぜイアンが暴力を振るうかと言えば、彼の家庭環境がその背景にあることはもはや自明のことである。しかしながら、作中では何の前触れもなく、突然スティーヴィーに襲い掛かるのでそのように映るのだと思われる。

私自身も突然襲い掛かるという点については疑問を感じていたのだが、わけもなく突発的に暴力を振るう人がいるとしたら、尚更それには一般的に考えられるよりも深い背景があるのではないかと思う。これは全く描写されていなかったのであくまで推測でしかないが、恐らく日常の中でイアンが暴力を振るってしまうトリガーが何かしらあるのではないだろうか。

そのトリガーが具体的に何だったのかはわからないが、いずれにしても彼の行為の背景に家庭環境の問題があることは確かであり、彼自身もスティーヴィーにそのことを打ち明けている。これについて、あるレビューでは「姑息な告げ口」と捉えていて、非常に強い違和感を覚えた。

確かにイアンの暴力はスティーヴィーにとっては息苦しさの要因になっているが、だからと言って、スティーヴィーはイアンのことを嫌悪しているわけではないし、対立関係にあったわけでもない。プレゼントをあげたり、時には母親の金を盗るために協力をお願いするくらいである。一方のイアンも、スティーヴィーが嫌いで意地悪したいから暴力を振るっているのかというと、そうは捉えられないと私は思う。スティーヴィーが物心つくまでの間に様々なストレスを一人で抱えてきたがゆえに、スティーヴィーの存在を認められない気持ちが強く、素直になれないのだと思われる。でなければ、過去の話を打ち明けたりしないのではないか(2人が異母兄弟であるからとする見方もある)。

 

あくまで作品の話であって、その内容をどう捉えるかは各個人に委ねられておりますので。

 

作品全体としては、90年代のストリートカルチャーをリアリティをもって感じられたのが面白かった。人種関係なく、それぞれの事情にきついジョークを交えながらも理解を示そうとする様子はまさに象徴的だった。

レイとFUCKSHITの出会いもそうだが、表現は不器用ながらも、心の中では相手のことを思いながら接してきたことで居場所ができていったわけで、やっぱりそういう関係性にグッときてしまう。

ただ、やはり非行と家庭環境の問題は関係が深いと改めて感じるし、その元凶を生み出しているのは紛れもなく親であり「大人」である。しかしながら、ストリートに繰り出した彼らのような存在がいなかったら、自分が好きな文化も生まれなかったと思うと、なんとも複雑な気持ちである。

 

本作はわかりやすく「青春映画」と表されることが多く、若き日の苦悩と葛藤、楽しかった日々...言葉としては確かに間違いではないのだが、そんなにキラキラしたものではないし、彼らが抱えている問題はかなり根深いものである。

ストリートの生き様と言えばカッコ良いけど、日の当たらない部分を含めた、そこで生きる彼らのリアリティが映し出された作品であった。