Uncertainty

わかったようでわからないことを書いています。

熱狂の矛先

昨年あたりからなんとなく胸の中で引っかかり続けていることがある。

 

例えば、好きなアーティストのライブに行くと、必ず何かしらグッズを買う。

 

昨今の音楽業界において音源の売上のみでは当然十分な利益を得ることができないということはもはや周知の事実であり、それを大きく賄うのがグッズだ。

 

好きなアーティストにこれからも頑張ってもらいたい...というひたむきな熱意と愛情の発露が、グッズを買うことであり、好きならばそうして当たり前であると考えていた。

 


何も間違ったことではないし、ファンによるそうした支援がなければ、アーティストは活動を続けることができないだろう。


そうやって、新譜が出るたびにCDとそれに付属する特典が増え、ライブに行くたびにTシャツや日常では全く用をなさないような物品が増えていく。

増えたモノによって、好きなものに囲まれているという状況が作られ、それがまさに一つの幸福にも感じられた。


「手に取れる幸福感」は、非常に心強く、たいていの孤独を乗り切ることができた。


こうして音源を始め、Tシャツや様々なグッズ等、莫大な金(と愛)をかけてきたアーティストたちがいる。


高校の時から応援しているアーティスト、大学時代に出会ってライブに行くようになったアーティスト、もちろん社会人になってから熱狂的に好きになったアーティストもいる。


生きる限り、きっと彼らは音楽を続けるのだろうけど、俺は一体いつまで彼らを「応援」し続けるのだろう。

 


こうした考えが、ふと頭をよぎることが多くなったような気がしている。

 


好きだから新曲が出たら聴きたいし、ライブも観たい。

 


でもグッズを買う...というより、この「応援し続ける」という姿勢が、自分の中で釈然としなくなっているように感じる。

 


何かを追い求める、例えば自分がまだ出会ったことのない人やこと、音楽、酒を探すとか、好奇心を追求するとか、それは人生をかけて続けていくことだと思うが、

俺は自分の人生をかけてまで、自分ではない、生活上にもいない向こう側の人たちの生活に熱狂し、それを支援するのか?と。

 


その一端が、アーティストに関連するモノ、本当に必要?という疑問なのだと思う。

 


音楽を好きでいることをやめるつもりはないが、その向き合い方については、もっと違うあり方があってもいいような気がしている。

 


まずは、今まで溜め込んで結局引き出しの奥底に休眠しているようなモノたちを引っ張り出して、できる限り分配していきたい。

 


たぶん、もっと身軽になれる気がする。

 


そしておそらく、

俺はもっと、俺自身の生活について、熱狂し、俺自身を支援する必要があるのだと思う。

 

孤独の限界

敬愛する植田真梨恵さんがブログやSNSとかでたまに、こんなことを言うことがある。

 

「やっぱり人と話さないと自分が何考えてるかわからないな」

 

うーん、そうかぁ?

自分が何を思い考えているかなんていうのは、自分が一番よく理解しているでしょ

 

自分が一番よく理解しているから、ブログやSNSでそれを発信できるわけで。

 

そうは思うものの、なんだか自分の中でどこか引っかかるものがあった。

というか、実際のところどうなんだろう、という思いもあった。

 

ところが昨日、引き出しにしまったままにしていたその植田さんの言葉を引っ張り出す出来事があった。

 

昨日は車ではなくバスに乗って、古町どんどんへRYUTistNegiccoのライブを観に行った。

素晴らしいことに、古町どんどんではこの2組が無料で観れてしまう。

 

素晴らしい新潟。

 

ライブは楽しく、RYUTistは曲を聴くきっかけにもなった。

 

久々の古町。学生の頃、就活やら何やらで新潟をリサーチに来ていた時は、GAINGROUNDに行きたくてよく足を運んでいた。

それから実際に新潟に住むようになってからは、長岡だったこともあり、だんだんと古町に訪れること自体がなくなっていった。

 

それゆえ、古町の商店街通りを歩くと、新潟に憧れていた頃のキラキラした気持ちが蘇ってくる。

ゲインに行くのも、もう6、7年ぶりくらいになってしまった。

おそるおそるお店まで歩みを進めると、店頭のベンチに店主のタチバナさんが座っていて、Twitterを更新している。

 

「ちはー」と言って中に入ると、当時と変わらない店内の並びと芳香剤の香り。

ゲインから足が遠のいてしまったことの一つに、輸入盤の取り扱いが少なくなってしまったことがある。

以前は国内と輸入盤で半々の陳列だったが、曰く卸の倒産により仕入れができなくなってしまった、とのことだった。

ゲインで買ったものでよく覚えているのは、PropagandhiのFailed States。これがきっかけで、硬派なメロコアやハードコアを好むようになった。

そしてPUPのThe Dream is Over。タチバナさんがTwitterで激推ししていて、当時ポップパンクに片足突っ込んでいた自分はどハマりした。

 

まあ自分にとっての思い出というのはそんな程度のものだが、それでも、パンクやハードコアを新潟古町から発信し続けるお店の存在というのは、一介の音楽オタクからしても心強いものである。

 

そんなことを反芻しながら、棚を眺めていると、輸入盤コーナーにやたらTILTが置いてある。

欲しいと思った時に全然どこにも売ってなくて、すっかり買わずじまいになっていたので、テンション小上がり。

結局2ndを買うことに(これがメロコアかと思いきや渋メロディックでオタク感涙)。

 

レジに持っていき、Twitter用の写真を撮影。

タチバナさんは私が着ていたTシャツを見て、当たり前のように「Turnstileいいよねー」と話しかけてくれた。

タンスタが共通言語になることの嬉しさは、ゲインとなみ福でしか味わったことがない。

 

「最近新譜出しだんだっけ?」という問いかけに、

「去年か一昨年に新譜出しましたね。なんか色んなフェスに出てて、すっかり売れっ子になっちゃいましたね」

と返した。

話題はそこで終わってしまって、商品を受け取り、店を後にした。

 

自分はTurnstileやハードコアの話をしたかったのだけど、自分の口をついて出たことが「すっかり売れっ子になってしまった」

ということで、自分で思っていたはずのことと違うことを発言していて、自分の中で戸惑いが生じた。

 

まあ会話が下手であることはさておいて、自分がTurnstileに対して「新譜まじかっけえ」とか「Gravityまじ最高」とかじゃなくて、

「売れっ子になってしまった」という思いが一番に来ていることに驚いてしまったのである。

 

たぶん前者の応答をしていたら、もっと会話が弾んでいただろうし、おそらくタチバナさんもそういう応答を想定していたんじゃないかと思う。

 

まあ確かに、好きなんだけど、しばらく聴いてはいないな。

 

 

このわずかなやり取りを経た後で、植田さんの言葉がふと思い出され、その意味を思い知ったのだった。

 

本当に自分が思っていること、考えていることって何なのだろう。

 

口から出たこと、言葉にしたことが自分の中にあるすべてなのだろうか。

 

 

きっとこれがおそらく、孤独の限界というものなんだろうな。

 

 

ホウェア・イズ・マイ・ベッド

トレンディドラマをひとしきり観終えて、今度は気になった映画を片っ端から観ている。

 

クレイマー、クレイマー

 

タイトルは知っていたが、意味がわからない変なタイトルだと思っていた。

 

日本で言う「北の国から」であるが、離婚や親権という現代社会における深刻な問題を、心温まるドラマとして取り上げている。

 

世間一般、あるいは法律においては、「血」や「父」「母」あるいは「夫」「妻」は特別的な力を持つ。

 

しかしながら、日々その家で生きる人間にとって、それらはどれだけの意味があるだろうか。

 

子供の興味関心に目もくれない、話も聞かない。生活を成り立たせていればそれだけで「父」「母」と言えるのか。

 

そう考えると、「血」というものは、親子間において「精神的なつながり」があって初めて意味を成すのではないかと思わされる。

もちろん。社会的な価値観は抜きにして、である。

 

逆に言えば、「精神的なつながり」ができていなければ、いくら「血」がつながっていたところでただそれだけのことなのではないか。

 

単に親らしい行動や振る舞いをするのではなく、子供の、あるいは相手の心にどれだけ向き合うか、それが愛すること、つまり「精神的なつながり」に変わるのではないか。

 

当然ながら、母親のジョアンナの選択は否定されるべきものではないし、自分は結婚や子供との生活とは違う人生を送りたいと気づけることは非常に大切なことである。

 

ただ、ジョアンナの一連の行動を見ていて、近頃突如思い出された過去の記憶について、一つの理解ができるような気がした。

 

まずもって、ずっと思い出すことのなかった記憶がここにきて突如蘇るということは、つまり「清算」である。

 

そして、自分の中で、その記憶を思い起こさせる感情は一体何なのか、それがわからず悶々としていた。

 

それは、自分がつらい状況にあった時に理解を示してもらえなかったこと、自分の行いによって自分が一方的に非があるという見え方をされている(と思っている)こと、これらに対する怒りであった。

 

これが根底にあるのだということを、時間はかかったがようやく言語化することができた。

 

なぜなら、以前の自分はこれらのことに怒りを感じることができず、自分で全部自分が悪いと思っていたからである。

 

それが理解できたら、途端に腹立たしさが増して、ふざけんなと思った。

 

結局のところ、どんな関係であれ、互いの心に向き合わなければ、どこかで綻んでしまうのだ。

 

向き合った結果、合わないということなら、それはそれまでのことなのである。

 

それゆえに、テッドもジョアンナも、どちらにも非があり、どちらにも非がないと言えるし、非について考えること自体が無意味になる。

 

そういうタイプなのだと、互いにそう捉えるに然るべき、ということである。

ビューティフル・オブリビオン

忘却の彼方にあったはずの記憶が、突然再び現れるようになった

 

なぜかわからない

 

ある未明、夢を見た

 

昔交際していた人との間に子どもが生まれる夢だった

それはそれは幸せに満ちた夢だったが、今更そんな夢を見させられたところで、どうしろと言うのか

 

なぜそんなものを見せるのか、理解に苦しむ

 

 

俺は相変わらず昨年末からハマっている、トレンディドラマを観ている

 

ロンバケを観終わって、今度はラブジェネが佳境に入ったところだ

 

トレンディドラマで一番好きなのは東京ラブストーリーで、もう何回でも観たいくらいに好きだ

 

思えば俺の人生のバイブルはとらドラであり、最近では漫画も僕ヤバとか隣のお姉さんが好きとかラブコメばかり読んでいる

 

元から恋愛ものが好きだが、今観ているトレンディドラマに関しては、どこか、過去の自分やある関係における失敗やそれに類する出来事について、あの時自分はどうすべきだったのか?ということを心のどこかで思いながら観ているような気が、あの夢を境に、するような、そんな気がしている

 

そして恐らく、これは行き場を失った感情や思考によるものであって、これらは人との間において表出されることを望んでいる

 

表出されたとき、きっと一番奥の方でつっかえていたものが取れて解放されるような予感すら感じる

 

 

自分の今いる状況やそこに辿り着くまでの変遷というのは並べてみればだいぶおかしなものであるし、自ら発信することを拒んでいたことで誤った認識や解釈をされ続けているのではと勝手に思っている

 

色んなことがあって当初思い描いていたような状況とは全く違っているけど、何もなかった地でこれほど様々な人が自分の人生に関わってくれているということもまた、全く想像していなかったことだ

 

そうやって、何もなかったところから、自分なりに地を固められていること、自分のやるべきことを見出せたこと、それが今の自分を肯定する最大の理由だと感じている

 

それは、他の土地では為し得なかった

自分で選んだ土地だから、足を踏み出し続けることを止めなかったのだと思う

 

この地を選ぼうとしたとき、ちゃんと自分の意志でこの地を好きになろうと思った、あの時の自分に本当に感謝したい

 

そうしていなければ、もっと嫌な思いに苛まれていただろうし、とうの昔に逃げ出していただろう

 

だからきっと、もう本当に不要なものは処分すべきであると、そう言われているのだと思う

 

 

さて、ねこと暮らそうかな。

自に立つ

 

地に足つけて

 

自分自身の責により歩く

 

己の意思による選択が

 

他責に化けようとする時

 

苦痛にもがく声が聞こえる

 

それは誰が為か?

 

今一度己の足跡をなぞる

 

轍に落ちる破片が光り

 

その手に宿る

 

光が放たれ、この身を包む

 

責を負い歩く覚悟とその様を、

 

しかと見ている。

 

この目で見届けている。

 

その選択は己の意志と変わる

アイスタンドアローン

ここ1、2週間くらい、全く寝付けない夜が続いている。

単純にエネルギーがあり余っているのもあるし、色々なことが頭を渦巻いたり、身体的な感覚が敏感になったりするのもある。

 

寝る前に何も考えないことなんてない、なんて言う人もいるけど、俺はそれをしたくなかったし、そうならないようにしていた。

それは単純に睡眠の質が落ちて心身によくないし、そんな時に考えることなどロクでもないことが多いからだ。

だからそんなことを言う人は、「はいはい敏感で繊細な人なんですね〜」と心の中では少し軽蔑していた。

 

でも今、全く眠ることができない。

だからこうして、タブレットを開いて文字を打ち込んでいるのだ。

 

今まであまりなかったことだなあと思いながら、生活リズムを整えたい気持ちとぶつかり合って、なんともじれったい。

複数の異なる感情が同じ瞬間に同居し胸の内に混沌をもたらすことは、社会を生きていればよく起こる。

 

そんなことを考えていたら、この2022年という1年も今まであまりなかったことが色々とあったなあと頭の中で回想が始まった。

 

ここ数年の年末は、くる年をどんな1年にしていくのかを決めて、新年を迎えるようにしている。

 

2022年の方針は、「曝け出す」ことだった。

さらに、その柱となる指針に、「背水の陣」「自分が自分を認めている、それ以上のことはないこと」「自己融和」の3つを掲げていた(一人でひっそりと)。

 

実際、今年あったことを振り返れば、

1年の半分以上はキャリコン取得に費やしていたことが一番大きなウェイトを占める。

合格して9月に正式に資格取得が完了して、その翌月には退職届を出し、有給消化を満喫しながら転職活動をして希望の未経験業種の内定をいただき、今日に至る。

 

年齢的に未経験転職は今が最後だと思っていたから、文字通り背水の陣だった。

資格取得の過程もたくさん脇汗をかきながら、とにかく何かを身に付けたくて夢中になっていたし、その成果や体験が自分の自信に変わっていったことが何より重要なことだった。

資格取得で身につけたことを実務で活用することで、自分で自分のスキルを実感することができた。

これが、自分で自分を認めること、そして自分自身のキャリア転換への大きな足がかりとなったように思う。

 

この経験から自分のキャリアの方向が具体性を帯びたことで、ずっと思い悩んでいた自分の何たるかに一つのしるしをつけることができる。

 

 

しかしその間には、自分自身の存在を問い直すような時期もあった。

2021年に始めたマッチングアプリで出会った方との関係が2022年に入ってからも続いていた。

過去にも書いたが、その人といる時は本当に楽しくて、人と話すのってこんなに楽しいんだ!と心から思っていた。

でも、自分が抱いてる気持ちが恋愛感情としてのものなのか、この先どうなりたいのかが自分でもよくわからなくて、しかしうやむやのままにするのも良くないし、と悩む日々が続いた。

どういう「好き」なのかよくわからないまま告白してそうなったはいいが、結局ぎこちなくなって関係は途絶えた。

 

失恋とか落ち込むとか言うより、俺が放り出されたのは、自分で自分がどう思っているかもわからない、自分って一体何なんだろう、という虚無の世界だった。

今まで好きで聴いてきた音楽も、これ本当に好きなんだっけ?と感じてしまうほどだった。

4ヶ月間の資格の養成講座がちょうど終わって気が抜けたタイミングでもあり、当然勉強する気にもなれなかった。

 

それから数ヶ月後にまたアプリをやってみたりしたけど、まあ流石に心がすり減りすぎてやめてしまい、当分そういうのはいいな、というモードに突入した。

 

ただ、そうなってからは本当に縛られるものもなく、ラーメンを今までにない頻度で食べ回ったり、今年は行く機会がないと思っていたライブにもなんだかんだ行けて、大好きなアーティストが増えたりしたし、夢のクレヨン王国の世界にもどっぷりと浸かったりした。

会社の行動制限が緩和されて、ずっと会えてなかった人たちも会えた。今自分が何をしていてどんなことを考えているのかをちゃんと伝えることができた。

俺が会えて嬉しかっただけでも胸がいっぱいなのに、あの時と変わらない様子で安心させてくれたり、昔話に花を咲かせたり、手厚く出迎えてくれたり、これからのことで背中を押してくれたりして、大袈裟かもしれないが、俺は本当に生きていていいんだ、生きていて良かった、と心から思ったし、そういう思いにさせてくれる人たちの存在に本当に感謝で頭が上がらない思いだった。

 

そうやって自分の今を伝えられたのは、唯一の近くにいる友達のおかげもある。それで、信頼している人には自分の話を自分からするようになった。寂しいことにその友達はついに東京に異動になってしまったけど、実際離れても驚くくらい変わらないので、これが友達なんだよなと思ったりする。

 

 

俺は自分の足で立って歩くことができなければ、自分の人生に意味はないと思って生きてきた。

でも、色んな人を傷つけ、傷つけられ、周りの人に支えられなければ、自分の足でちゃんと立っているんだと実感することはできない。

自分自身に向き合い認めていく過程を踏みながら、自律して自立することの意味を、足の裏の感触で直に思い知らされた、そんな1年だった。

 

2023年の方針はもうすでに決まっている。

決まるというか、見えるものである。

その見える道筋へと、己の足で一つひとつ踏み締めて、新たな1年を越えていく。

オトナのウィークエンドのまぼろし

2022.12.4 BONNIE PINK「HELLO AGAIN」@BillboardLive TOKYO

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初めてのBONNIE PINK。初めてのビルボード

あっという間の1時間半だった。

新旧織り交ぜたセットリストで、まさかこれが聴けるとは...!という曲もあってとても楽しかった。

しかしながら、10数枚のアルバムを出しているからこそ、聴きたい曲があまりに多くて、

間違いなく1時間半ではこの思いは消化しきれないな、と思った。

 

そもそも、キミ、BONNIE PINK好きなんだっけ?と思っている人が多いだろう。

あまり人に話したことはない(機会がない)けど、大学時代から1人でこっそり聴いていたのがBONNIE PINKだ。

 

きっかけとなったのは、俺がメロコアと出会うきっかけとなったFOUR GET ME A NOTSのライブだった。

当時、フォゲミのライブSEがBONNIE PINKの「forget me not」で、いい曲だなーと思って帰ってから

めっちゃ調べて特定した記憶がある。

 

その頃の俺はメロコアキッズだったので、流麗なメロディで、かつ英詞の曲をよく聴いていた。

日本人で英詞をやるとなると、メロに対する詞の乗せ方がアーティストによってものすごく差があって、

特にAIR JAM世代やそれに影響を受けたようなバンドにはカタカナ英語が多く、つまり結局は日本語みたいな、

メロディ1音に対して発声1音、といった詞の乗せ方になってしまう(意外と発音の問題ではなかったりする)。

しかし実際、英語は子音の要素が強いため、メロディ上では日本語よりも結ばれる点が多くなるようなイメージになる。

これによって、メロディに乗った言葉の流れが滑らかになり、また詰め込まれた言葉でノリが生まれる。

 

だから俺は、海外アーティストに影響を受けまくった日本人が作るメロディがとっても好きなのだ。

 

ことBONNIE PINKは洋楽っぽいメロディだし、発音も綺麗なので、なおさらカッコ良いと感じたのだった。

 

それからは、ベスト盤をレンタルしてまあまあ割と聴いていた、という程度の距離感であった。

 

そして今年になって、思い出したように聴き直していたら、「You Are Blue, So Am I」を聴いた時に、

順序は逆だけど「これ「(Base Ball Bearの)YOU'RE MY SUNSHINEのすべて」やん」という発見をして1人盛り上がっていた。

 

そんな最中に、Base Ball Bear小出さんとチャットモンチー済えっちゃんの対談で、

「俺らバンドマンで一番BONNIE PINKに影響受けてる説」というくだりがあって、

「やっぱりそうなんだー!」と驚きと嬉しさに舞い上がり、ベストだけじゃなくて

それぞれのアルバムをちゃんと聴くようになった。

 

だから正直ファンかと言われるとそうではないし、「良いよね」っていうくらいの距離感ではあるのだが、

あまりライブ活動をしている様子がなかったので、今見ておいた方が良いなと思って今日に至る。

 

 

アルバムは「Even So」が好きで、それこそ「the Answer〜ひとつになる時〜」なんかは、

チャットモンチーの「ウィークエンドのまぼろし」(チャットで一番好きな曲)が想起されて、

ああやっぱりそうか、なんて1人分かったような顔をしたりしていた。

 

 

だから今日、3曲目くらいで「OCEAN」を歌い出した時はびっくりした。

まさかやるとは思ってなかったし、ライブ映像とか一切なくて音源しか知らないから、

それはもうめっちゃ鳥肌が立った。

「本物だ!」としか言いようがなかった。

 

2ndの曲からは「Melody」「No One Like You」。

音源だとピアノ主体の作りだから、実際にバンドによるアレンジがかなり新鮮だった。

 

そのバンドアレンジがとりわけ際立っていたのは「金魚」だった。

サビが同じフレーズを2回繰り返す展開で、ライブでは2回目の時に歌の裏でバンドがブレイクするのが

めっちゃカッコ良かった。シンバルミュートから目が離せなかった。

 

アンコールは「鐘を鳴らして」。

聴いた瞬間泣きそうになった。これこそバンドサウンドが映える曲。

「君が君らしくあること それはまた孤独とも言う」

本当に良い歌だ、と心から思った。

 

全体的にドラムがレイドバックして雰囲気出していて、"オトナ"のライブだった。

ああいうカッコ良さも時には良いよね。

 

BillboaedLive TOKYOはいわゆる2階席3階席みたいなところまで席があって、

高さはあるけど思いの外ステージとの距離は近くて、音もよく聴こえて心地よいサイズ感の会場だった。

 

今回は4階(2階席くらい)のカウンターの端の席だったが、ちょうど演者が入退場するルートに面していて、

BONNIE姉さんやバンドメンバーを間近でもしっかり見ることができて幸運だった。

こういうラッキーがあると、やっぱり来て良かったなと思う。

 

ビール飲みながらライブ観るなんてことも、多分初めてかもしれない。

食事も美味しかった。めちゃくちゃ高かったけど。

何か頼まなきゃいけない感じでメニュー見たら、パスタ1800円、ビール1400円といった具合で脇汗が溢れ出た。

美味しかったから良いけど。

 

自分の身の丈には合ってないなあとは思ったけど、良い会場だった。

 

 

本当にあっという間の1時間半だった。

今回はTonight, the nightもHeaven's Kitchenも聴けなかったからまた行きたいな。