トレンディドラマをひとしきり観終えて、今度は気になった映画を片っ端から観ている。
タイトルは知っていたが、意味がわからない変なタイトルだと思っていた。
日本で言う「北の国から」であるが、離婚や親権という現代社会における深刻な問題を、心温まるドラマとして取り上げている。
世間一般、あるいは法律においては、「血」や「父」「母」あるいは「夫」「妻」は特別的な力を持つ。
しかしながら、日々その家で生きる人間にとって、それらはどれだけの意味があるだろうか。
子供の興味関心に目もくれない、話も聞かない。生活を成り立たせていればそれだけで「父」「母」と言えるのか。
そう考えると、「血」というものは、親子間において「精神的なつながり」があって初めて意味を成すのではないかと思わされる。
もちろん。社会的な価値観は抜きにして、である。
逆に言えば、「精神的なつながり」ができていなければ、いくら「血」がつながっていたところでただそれだけのことなのではないか。
単に親らしい行動や振る舞いをするのではなく、子供の、あるいは相手の心にどれだけ向き合うか、それが愛すること、つまり「精神的なつながり」に変わるのではないか。
当然ながら、母親のジョアンナの選択は否定されるべきものではないし、自分は結婚や子供との生活とは違う人生を送りたいと気づけることは非常に大切なことである。
ただ、ジョアンナの一連の行動を見ていて、近頃突如思い出された過去の記憶について、一つの理解ができるような気がした。
まずもって、ずっと思い出すことのなかった記憶がここにきて突如蘇るということは、つまり「清算」である。
そして、自分の中で、その記憶を思い起こさせる感情は一体何なのか、それがわからず悶々としていた。
それは、自分がつらい状況にあった時に理解を示してもらえなかったこと、自分の行いによって自分が一方的に非があるという見え方をされている(と思っている)こと、これらに対する怒りであった。
これが根底にあるのだということを、時間はかかったがようやく言語化することができた。
なぜなら、以前の自分はこれらのことに怒りを感じることができず、自分で全部自分が悪いと思っていたからである。
それが理解できたら、途端に腹立たしさが増して、ふざけんなと思った。
結局のところ、どんな関係であれ、互いの心に向き合わなければ、どこかで綻んでしまうのだ。
向き合った結果、合わないということなら、それはそれまでのことなのである。
それゆえに、テッドもジョアンナも、どちらにも非があり、どちらにも非がないと言えるし、非について考えること自体が無意味になる。
そういうタイプなのだと、互いにそう捉えるに然るべき、ということである。