Uncertainty

わかったようでわからないことを書いています。

「かくあるべき」

なんかクソ暑い思ってたら急に夏終わり出すし、

とんでもなく雨降り出すし、

バッハ様のための運動会が終わって流行り病がとんでもなく広がってるし。

 

毎日がとんでもなく目まぐるしい。

 

状況が常に二転三転し続けるから、価値基準もどんどん変わっていて、これが絶対!なんてものはもうどこにもない(というか、元々そんなものはない)んだけど、それを信じてやまない人は割といるな、と思う。

 

これが絶対!というものがあればそれを拠り所にして安心できるんだろうけど、それって自分自身を放棄することと同義なんじゃないの、と思う。

 

人間は考える葦だってカルパスだかぺんてるだかいう人が言うてたけれども、私たちは自分という思考軸を持っているからこそ生きられるわけであって、これが絶対!を拠り所にすると言うことは、自分の頭で考えることをやめる、と宣言するようなものです。

 

その、これが絶対!というのは、私のことばで言うと「かくあるべき」ってやつで、いわゆる正義とか常識とか、細かく言うと伝統とか慣習とかも含まれる。

 

こんな世界になってから余計に際立っているけれど、「かくあるべき」だけで物事を良くしていくことは、元からできないことだったのです。

ただ、それが許されていたというだけで。

 

確かに、いやこれくらいはわかるでしょ、っていう常識(という言い方も本当はしたくない)はあるけど、年齢問わずそれが通用しない人は割といるし、そういう人たちを含め上手くやっていくにはどうしたら良いんや、ということを考えていかなければいけない。

 

そういう中で、「最近の若い子」というレッテルで新しい世代がつらい扱いを受けているのを見ると、「彼彼女らが知らないことを教えるのがお前らの役目だろ!」という憤りと、それを自覚できない人たちの無能さに歯痒さを感じずにはいられないわけです。

 

今こういう世界になって、私たちを取り巻く環境や状況、それぞれが抱えている背景は多様で、曖昧で、複雑化している、ということが目に見えて現れているけれど、実際この世界以前からそうだったじゃないか。

 

だからこそ、その人の目線になって考えるだけじゃ足りなくなっていて、それまで生きてきた環境や背景をその人越しに見ながら、その人が「この世界をどのようにして見、考え、生きているか」を認めて(理解までしなくてもいい)、一緒に考えることが必要になっているのだ。

 

頑張りたいのにその頑張り方がわからなくて悩んでいる人に、「何でできないんだ!」と怒りつけても、何の解決にもならない。むしろ、教える能力がないことを自ら声高に叫んでいるのと同じだ。

そういう様を見ると、どうしてその人のフィルターを通して見てあげられないんだと悔しくなる。

 

最近常々思う。

未来を作るのは若手や子どもたちだが、大人が、特に上の方(立場、年齢)にいる人間が時代の変化に気づかない限り、社会は変わらない。

 

これは悲観ではなく、現実だ。

 

だとしたら私は、未来を作る若手や子どもたちに、「かくあってもいい」ということを伝えながら、そのあり方を一緒に考えていきたいよ。

 

"This is how we see the world"

 

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