最近「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という作品を好きになった。
兵器として生きてきた少女が、「自動手記人形」という代筆屋の仕事を通じて、人間の心を知り、かつて自分を大切に育ててくれた人が最後に残した「愛してる」の意味を理解していく物語だ。
作品の存在は以前から知っていてずっと気になってはいたが、ヴァイオレットの服装と義手から、Fateのようなバトルものなのでは、と敬遠していた。
そうやって気になり続けて、ある時ふとそれが頭をよぎってようやく出会う、ということが自分にはよくある。
今回はそのパターンだった。
テレビアニメ版から観始め、外伝を観たのち、今は原作のライトノベルを読んでいる。
テレビアニメ版は1話完結型で、本当に泣かなかった回がなかった。
一番泣いたのは第9話。簡潔に言うと、
ヴァイオレットが自らの行なってきた業を背負い、また自分自身の生を受け入れることができた回。全13話の中でもっとも印象的な場面だった。
そして特にこの場面は、私が私自身をより深く見つめ直すきっかけになっている。
人間は他の誰かのために生きることはできない。
逆に、自分で自分を認めることができていさえすれば、一人でどこまでもいくことができる。
私は、2、3年前に比べれば、自分で自分のことを認められるようになったという実感がある。
それでもまだ、自分がこれまで積み重ねてきた時間の中の、根に近い深いところで、うまく消化しきれていないことがある。
そのことが、未だに自分の思考や行動様式に良くない影響をおよぼし続けている。
それを解決するために、その問題に自ら臨んだこともあったが、結局平行線のままに終わっている。
そうして今、改めて自らの半生において、家族からしてもらって嬉しかったこと、嫌だったことは何かを考えている。
嫌だったことはいくつかあるが、嬉しかったことは一つも思い出すことができない。
おそらく、以前の自分であれば、このことを自分以外の誰かや境遇、環境に原因を見出して嘆いていただろうし、実際にそんな状態が続いていた。
しかしながら、今改めて思うのは、当時の自分が幼くして自分の抱えている気持ちや欲求を抑えつける癖がついてしまい、結果自分の本当の気持ちに気づくことができなくなっていた、それが最大の原因であった、ということだ。
自分が思い出せる数少ない幼い頃の記憶で、母方のじいちゃんにこんなことを言われたことがある。
「はっきりしゃべれ、はっきり」「口で言わねえばわがんねえんだぞ」
朧げになってるけど、たしかそんな感じの言葉だった気がする。
両親や親族からも同じようなことを言われていたことはなんとなく覚えているが、
じいちゃんに言われた時のことが一番記憶に残っている。
遊びに行くとよくかもめの玉子を出してくれた。大好きだった。
今でも人に地元の土産を買う時は、必ずかもめの玉子を選ぶ。
あまり良く覚えていないが、だいぶ可愛がってもらったような気がしている。
それはじいちゃんがとても好きだったなあ、という心の感触が残っているからだ。
そんなじいちゃんとは中学から遊びに行くことが減って、そして3月11日以降、会うことがなくなってしまったけれど。
なぜ自分がしてもらって嬉しかったことが思い出せないのか。
それは、自分がしてほしいことを伝えようとしてこなかったからだ。
だからずっと、満たされるべき欲求が満たされないまま、過去の自分に足を引っ張られている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン<上>を読みながら、そんなことが頭を巡って、作品と関係なく悲しくなった土曜の昼下がりだった。
世界の情勢が大きく変容してもう2年が経とうとしているが、
この2年間で自分自身のことを面と向かって考えるようになって、自分がどうしたいのか、どうなりたいのか、に敏感になった。
何もなかった自分が、ズバリ人生の時間を費やしてやってみたいことはこれかも!ということに出会うこともできた(実行するのはこれからだけど)。
特に最近は、自分の気持ちや体験したことを、下手ながらも意識せずに話せるようになったし、困ることをされた時に「ちょっとやめて」と顔色を見ずに言える場面も増えた。
以前に比べてだいぶ、「自己融和」が着実に進んでいるように感じている。
概念的な言葉で物事を一括りに表現しがちなのは悪い癖だな。
実際ダルいなあと思うこともいろいろあるけど、楽しみを自分で作れていて、それをより大きな領域でもできるようになりつつあるから、これから自分がどうなっていくのか、これからの自分がどうしていくのかが楽しみだなあ、とほんの少しだけ思っている。
まあ、不安と面倒くささの方が大きいけど。
目が眩むくらいどの人生もPRISM